「熱狂的なファンがいる理由が知りたい」
「カリスマ性のあるビジネスパーソンに成長する秘訣は?」
マラドーナは世界で最も有名なサッカー選手の一人です。「神の手」やさまざまなスキャンダルなどで常に注目され、出身国のアルゼンチンで最も人気のあった人物です。
度重なる問題を起こしても、彼の人気が衰えることがなかった理由はどこにあるのでしょうか。今回はマラドーナの生い立ちと、カリスマ性を持つことができた理由について紹介していきましょう。
この記事で紹介する内容は以下の3点です。
- マラドーナの生い立ちと「神の手」
- 何度もスキャンダルを起こすも絶大なカリスマを誇る
- マラドーナが強烈なカリスマを持った3つの理由
Contents
マラドーナの生い立ちと「神の手」
マラドーナはどのように世界一流のプレーヤーに成長していったのでしょうか。まずは生い立ちと成長のプロセスを紹介していきましょう。
アルゼンチン最年少のプロ選手として活躍
ディエゴ・マラドーナは1960年にアルゼンチンのブエノスアイレス州で誕生しました。幼少期のマラドーナは貧しい家庭で育ちましたが、9歳で地元のサッカークラブに所属するとすぐに才能を開花。13歳になると学校を辞めてサッカーに専念。AAアルヘンティノス・ジュニアーズのトップチームに昇格すると15歳でクラブからアパートを与えられ、アルゼンチン・リーグ史上最年少出場を果たすと初ゴールも決め、18歳・19歳でアルゼンチン・リーグの得点王・アルゼンチン年間最優秀選手賞・南米年間最優秀選手賞に輝くなど若くしてアルゼンチンを代表するスター選手として活躍しました。
世界一流の選手としてすぐに才能を開花させる
アルゼンチン代表としても18歳の時に日本で開催されたワールドユース選手権に優勝しMVPを獲得。1982年のスペインW杯では21歳ながら強豪・アルゼンチンの10番をつけてプレー。
1986年のメキシコW杯では、準々決勝のイングランド戦で後に「神の手」と称されるゴールを決め、その直後に60m近くをドリブルで突破し、5人抜きでゴールを決めるなど数々の活躍を見せました。そして決勝でも決勝点をアシストし、アルゼンチン2回目のW杯優勝に大きく貢献しました。この大会ではアルゼンチンが得点した14点に5ゴール5アシストで貢献。MVPに選ばれて「マラドーナのための大会」と言わしめました。
不祥事を起こすも絶大なカリスマを誇る
世界最高のサッカー選手の一人に数えられることとなったマラドーナ。彼のキャリア後半とセカンドキャリアについて紹介していきましょう。
何度もスキャンダルを起こすもオファーが殺到
世界でもトップクラスの選手として人気を集めていたマラドーナは、クラブでもボカ・ジュニアーズ・FCバルセロナ・SSCナポリでキャリアを積み重ね、特にSSCナポリでは黄金期を築きあげ、「ナポリの王様」と呼ばれていました。
アルゼンチンをW杯の優勝に導き、クラブチームでも黄金期を築き上げたマラドーナですが、度重なる夜遊びや薬物使用疑惑、乱闘などで何度もキャリアを傷つけています。FCバルセロナを退団するきっかけになったのは相手チームとの乱闘騒ぎで、SSCナポリでは薬物使用やマフィアとの関係性が取り沙汰されました。また、Jリーグ発足時に名古屋グランパスエイトがマラドーナの獲得を内定していましたが、またも薬物使用疑惑が上がったため入団が取り消しとなるなど、常にキャリアアップのチャンスをトラブルで失ってきました。特にキャリア終盤では度重なる薬物使用によって何度も出場停止処分を受けました。しかし、マラドーナを欲するチームは多く、37歳で引退するまでオファーに困ることはありませんでした。
引退後のキャリアと早すぎる死
引退後も国民的な人気のあるマラドーナは2008年にアルゼンチン代表監督に就任するなど監督としても活躍。アルゼンチンやアラブ、メキシコなど3カ国のクラブチームで指揮を取りました。しかし引退後は薬物依存や体重増加など度重なる問題を抱えており、最後のクラブ監督も健康上の理由で辞任するなど、マラドーナの後半のキャリアは薬物の克服や健康維持との戦いでもありました。
そんなマラドーナは2020年11月に硬膜下血腫の手術を受けて成功したものの、11月25日に心不全で亡くなりました。60歳という早すぎる死に世界中がショックを受け、アルゼンチンでは大統領によって3日間は国全土が喪に服すことを宣言し、遺体を大統領府に安置。国民向けに「お別れの会」を開催し、数十万の国民が訪れました。この時に一部が暴徒化し、わずか1日でお別れ会が中止に追い込まれるなど、熱狂的な人気の負の一面が明らかにもなりました。
マラドーナが強烈なカリスマを持つ理由
マラドーナが強烈なまでのカリスマ性を持つことができた理由はどこにあるのでしょうか。ここでは3つの理由を紹介していきましょう。
野生味溢れるプレーと奔放な性格
マラドーナがカリスマ性を持った1つめの理由は、やはり彼のプレーにあります。マラドーナは10代から肉体改造に着手し、小柄ながら世界トップクラスのスピードとフィジカルを持っていました。圧倒的なパワーとボディバランスで立ち塞がるディフェンダーを突破し、強烈なシュートを決めるのがマラドーナのプレースタイルでした。
またテクニックも他を圧倒し、特に正確さが求められるフリーキックを得意としており、パスセンスも抜きん出ています。そしてほとんどのプレーを左足一本でこなす器用さも持ち合わせていました。
攻撃的で野生味溢れるプレーと、貧しい家庭からスーパースターに成長したサクセスストーリー、そして歯に衣着せぬ物言いやピッチ外での奔放な立ち振る舞いが相まって、マラドーナ以外の人物には真似できないようなカリスマ性を持つようになりました。
「神の手」が生まれたタイミングの良さ
マラドーナが世界的に有名になったプレーに1986年メキシコW杯の「神の手」が挙げられます。このプレーが世界中に注目され、特にアルゼンチン国民から熱狂的に受け入れられたのには理由があるのです。
この4年前の1982年にアルゼンチンとイギリスが南米にあるフォークランド諸島の領有権を巡って「フォークランド紛争」が発生しました。アルゼンチンによる武力侵攻で始まったこの紛争でしたが、最終的には世界有数の軍事力を持つイギリスが勝利しました。
この敗戦の不満がアルゼンチン国民にはくすぶっていましたが、W杯でマラドーナの大活躍でイングランドに勝利したことで国民は熱狂。戦争の敗北をサッカーの勝利で覆したヒーローとして政治的に祭り上げられることになったのです。このように、サッカーを巡る国際的な背景がマラドーナを世界的なプレーヤーとして知られる契機となりました。
プレーヤーとして優秀であることはもちろん、「敗戦に悲しむ国民のヒーローになった」というタイミングの良さによって強烈なカリスマを持つようになりました。
「弱いものの味方」というイメージの定着
マラドーナのスタンスは基本的に「反権力」であり、イタリアのSSCナポリへの移籍に象徴される「名門チームに挑む挑戦者」というイメージがついています。イタリア国内には「南北格差」があり、北部は発展しておりサッカーの競合チームが多いものの、南部は発展途上でサッカーの競合チームはおらず、それが国内の格差を産んでいました。
そこに世界的なスターであったマラドーナが移籍し、イタリア南部のチームとして初めて国内2冠を達成するなどの活躍をしました。これにはナポリだけでなく貧困にあえぐ南部の国民も熱狂し、マラドーナを支持しました。本人が貧困層出身ということにシンパシーを感じる人も多く、度重なるスキャンダルがあっても「庶民の味方」というイメージが最後まで失われることはありませんでした。
マラドーナの持つカリスマ性は本人の能力だけでなく、社会環境や時代の趨勢にうまく乗ることができた点も挙げられます。時代が求めるヒーロー像に合致していたことも、マラドーナがカリスマ性を持つことができた大きな要因といえるでしょう。
スミタイ向上委員長のまとめ
マラドーナは世界で最も有名なサッカー選手の一人です。その輝かしい功績の裏には数々のスキャンダルがあり、特に薬物使用によって彼のキャリアは大きく傷つけられました。本人も「薬物使用を後悔している」というように、薬物使用がなければより多くの功績を得ることができたでしょう。
その一方で、度重なるスキャンダルに見舞われても彼の人気が衰えることはありませんでした。それは彼のプレーもさることながら、フォークランド紛争や「強いものに挑む」という彼の性格、貧困層出身という背景も相まって「弱いものの味方」というイメージを定着させたことが大きいでしょう。
「カリスマ」と呼べるほどの強烈な認知度でなくとも、「あの人は○○な人だ」というポジティブなイメージが定着することはビジネスを進めるうえで有利であることは間違いありません。自分のワークスタイルや仕事で結果を出すことはもちろん、社会や企業内でどんな立ち振る舞いが求められているかを見極め、そのように立ち振る舞うことで多くの人の支持を得ることは可能です。ぜひマラドーナの良い部分を見習って、自身のキャリアをより良いものにしていきましょう!