「マイケル・ジョーダンの勝負強さの秘密は?」
「アスリートのマインドをビジネスにも応用したい」
マイケル・ジョーダンは「バスケットボールの神様」と呼ばれ、最も成功したアスリートの一人として知られています。1990年代のスポーツシーンには常にジョーダンの姿があり、ジョーダンの生み出したブランド「エア・ジョーダン」は世界中の若者が憧れるアイテムでした。
ジョーダンはビジネスパーソンとしても成功しており、彼の成功哲学を学ぶことはビジネスで成功するためにもプラスになるでしょう。
今回は、ジョーダンの生い立ちと「成功哲学」について紹介していきます。
この記事で紹介する内容は以下の3点です。
- マイケル・ジョーダンの生い立ちとNBAスタープレーヤーへの道
- マイケル・ジョーダンはビジネスでも多大な成功を収める
- マイケル・ジョーダンの「成功哲学」とは
Contents
マイケル・ジョーダンの生い立ちとNBAスタープレーヤーへの道
マイケルジョーダンは、どのようにしてバスケットの神様と呼ばれるほどに成功したのでしょうか。まずは、マイケルジョーダンの生い立ちについて紹介していきます。
「バスケットボールの神様」は高校のバスケ部に入部できなかった
マイケルジョーダンは、1963年にアメリカのニューヨーク・ブルックリンで誕生しました。少年時代からバスケットを習うと地元の高校でバスケットボール部に入部を希望します。しかし、バスケットボール選手としては小柄で技術がなかったことから入部を断られてしまいました。
しかし、その悔しさをバネに必死で練習し、2年生になったタイミングでようやく入部を果たしました。入部後も人一倍練習したジョーダンは3年生になるとレギュラーの座を勝ち取り、チームを州大会の優勝に導きました。
ここからジョーダンのサクセスストーリーが始まります。バスケットボールで奨学金を受けてノースカロライナ大学に進学すると、1年生からレギュラーとして活躍。全米大学体育協会のバスケットボール大会決勝戦でウイニングショットを決めると、そのショットが「伝説のショット」として注目されました。
2年生になると全米代表に選ばれ、3年時にバスケットボールアメリカ代表としてロサンゼルスオリンピックに参加。中心選手として金メダル獲得に貢献しました。
NBAのスタープレーヤーとして活躍
大学3年時にプロ入りすることを決意したジョーダンは、全体3位で指名されたNBAシカゴ・ブルズに入団。1年目からレギュラーの座を掴み、入団3年目にはシーズン総得点が3000点を超える超一流のバスケットボールプレイヤーに成長しました。
ジョーダンが入団した当時のブルズは優勝を狙えるチームではありませんでしたが、ジョーダンや他の若手選手が成長すると年々順位を上げ、1990-91年シーズンには初優勝を決めました。ここから3年連続でシーズン優勝する黄金期が訪れました。
しかし、93年のシーズンオフに不慮の事故で父親を失ったジョーダンは突如引退を表明。世界を代表するスタープレイヤーの突然の引退は大きな波紋を呼びました。
バスケットボールを引退したジョーダンは、亡くなった父親の夢であったプロ野球選手への転向を表明しました。そして1年間はメジャーリーグを目指してMLBシカゴ・ホワイトソックス傘下のバーミングハム・バロンズに所属していました。しかし、野球で結果を出すことができなかったジョーダンは1995年に再びバスケの世界に舞い戻りました。
2度目の3連覇で再びNBAのスタープレーヤーに
NBAシカゴ・ブルズに復帰したジョーダンは、2年間のブランクがあるにもかかわらず中心選手として活躍。1995-96年のシーズンは72勝10敗という圧倒的な成績で優勝し、NBA初のシーズン70勝到達で文字通り「最強チーム」の名を欲しいままにしました。ジョーダンは4回目のシーズンMVPを獲得し、再び世界最高のバスケプレーヤーとしての称賛を受けました。
1996-97年、1997-98年のシーズンも優勝し、ジョーダンは再びブルズを3連覇に導きました。特に98年のNBAファイナル第6戦では、残り5.2秒で決勝シュートを決めてブルズに6度目の優勝をもたらしました。このような輝かしいキャリアを築きあげたもののシーズン終了後に引退を表明。2000年にワシントン・ウィザーズに出資してオーナーになると低迷するチームのために再び現役復帰。2003年に40歳というバスケットボールプレーヤーとしては異例の長いキャリアを終えました。
マイケル・ジョーダンはビジネスでも多大な成功を収める
マイケル・ジョーダンはアスリートとしてだけでなく、ビジネスマンとしても成功を収めました。そこで、ジョーダンのビジネスマンとしての活躍をご紹介しておきましょう。
ナイキ社「エア・ジョーダン」が世界的なヒットに
マイケルジョーダンは、バスケットボールだけでなくビジネスでも大きな成功を収めました。最も有名な事例がアメリカのスポーツ用品メーカーナイキ社との関係でした。ジョーダンはプロ1年目からナイキ社とスポンサー契約を結び、ジョーダンの名前をブランドに取り入れたバスケットボールシューズ「エア・ジョーダン」を販売しました。
エア・ジョーダンは斬新なCMとジョーダンの活躍によって爆発的なヒットとなり、ナイキ社が世界トップクラスのスポーツ用品メーカーとして飛躍する大きなきっかけとなりました。エア・ジョーダンは世界各地で社会現象を巻き起こし、多くの若者が熱狂的に買い求める事態となりました。
経営者としても優れた手腕を発揮
NBAから引退したジョーダンは、2006年に新しくできたNBAチーム「シャーロット・ボブキャッツ」の共同オーナーとして選手人事の最高責任者に就任しました。2010年にはボブキャッツを買収し、NBA史上初の元選手オーナーとしてチームの経営にあたっています。
2014年には「シャーロット・パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれ、オーナーとしての手腕も評価されています。
他にも、バイクチームの所有や複数のレストラン経営などビジネスにも積極的に取り組み、近年ではe-スポーツのプロチームにも出資しています。
マイケル・ジョーダンの「成功哲学」とは
マイケル・ジョーダンは世界で最も有名なアスリートの一人であり、最も成功したアスリートともいわれています。ここでは、ジョーダンが成功できた秘訣や彼が大切にしていた考え方を紹介していきましょう。
負けず嫌いで諦めが悪い
マイケルジョーダンはとにかく負けず嫌いな人物だと周囲から言われています。高校でバスケットボール部の入部を断られた時にもひたすら練習に取り組み、入部を勝ち取りました。もし、ジョーダンが負けず嫌いな性格ではなかったら、ここでバスケットを諦めて世界的なスターにはなれなかったかもしれません。常に相手に勝つという強固な意思があったからこそ、成功者として上りつめることができたのでしょう。
試合だけでなく練習でも、プライベートでのゲームや趣味のゴルフでもこの負けず嫌いな性格で常に勝利を求めており、ジョーダンがこれまでに残してきた言葉にも、彼の負けず嫌いの性格がよく表れています。
「試合に「負けた」ことは一度もない。ただ時間が足りなくなっただけだ」
「人生で何かを達成したいと思うときは、積極的かつ、攻撃的にならなければならないと僕は自覚している」
「どんなことでも、何かを達成する場合にとるべき方法はただひとつ、一歩ずつ着実に立ち向かうことだ。これ以外に方法はない」
勝負強さの原動力は「失敗を受け入れること」
勝負強いということは、失敗のリスクを常に乗り越えてきたということです。ジョーダンは、実績だけでなく、人々の記憶に残るような数々のプレイを残してきました。特に、試合終了直前の勝負強さは抜きんでており、数々の伝説とも呼ばれるシュートを生み出しました。
そんなジョーダンは失敗を恐れるのではなく、失敗するリスクも受け入れたうえでどう行動すべきかを重視しています。そんなジョーダンは、次のような言葉を残しています。
「成功を学ぶためには、まず失敗を学ばねばならない」
「私は大事なショットを外した後のことなんて考えたことがない。もし考えたならいつも悪い結果を思ってしまうからさ」
「私は9,000回以上シュートを外し、300試合に敗れた。決勝シュートを任されて26回も外した。人生で何度も何度も失敗してきた。だから私は成功したんだ」
スミタイ向上委員長のまとめ
マイケル・ジョーダンは世界最高のバスケットボールプレーヤーとして今でも人気の選手です。しかし、彼もキャリアのスタートでは挫折を経験し、猛練習によって成功への入り口に立つことができました。
成功するために努力は不可欠ですが、失敗のリスクを受け入れたうえで挑戦することもまた重要であるとジョーダンは語っています。失敗を恐れるだけでなく、挑戦する勇気を持つこともまた重要です。
私は、ジョーダンの言葉の中でも次のセリフが最も好きです。
「愛とは、すべての試合をまるで最後の試合であるかのようにプレイすることだ。」
「最後の試合」だと思うからこそ全身全霊で打ち込むことができ、終わった後にも後悔しないのでしょう。仕事に対しても、顧客に対してもジョーダンのように愛を持って臨んでいきたいと改めて感じます。
ぜひ、皆さんもジョーダンのように失敗を恐れず成功できるビジネスパーソンに成長していってください。
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